松永安左ェ門という変わった男がいる。
壱岐に生まれた日本の財界人で、おもに“電力”の世界で活躍した人物だ。戦後、日本復興の鍵となった電力事業に取り組むさまがさながら鬼のようであったことから、「電力の鬼」という異名を持つ。
壱岐の商家に生まれ、幼少時に福沢諭吉の『学問のすゝめ』に感銘を受けた松永は、迷わず慶應義塾大学に入学する。一時期は父の死によって家業の水産業などを手がけたが、松永はそれらいっさいを他人に譲渡し、大学に戻って勉学を続けた。
ところが、卒業を目前にして突如、勉学への興味を失ってしまう。彼は福沢諭吉の記念帳に「わが人生は闘争なり」という言葉を記し、潔く退学した。二三歳だった。
記念帳に記された「闘争」という言葉は、松永のその後の生き様を象徴している。
松永はいくつかの事業に携わったのちに、三四歳で電力事業への第一歩を踏み出す。福博電気軌道の設立に関わり、福岡に路面電車を走らせたのだ。
その後、福岡県選出の衆議院議員となり、九州から中部までを統括する東邦電力の社長となるなど、順風満帆とも言うべき道をたどる。彼の働きぶりは、“超人的”であったという。
しかし、戦争の足音が聞こえ始めると、松永の立場は揺らいだ。軍部の統制が強まり、電気事業が国家の管理下に置かれることに反対した彼は、軍部に加担していた官僚たちを「人間のクズ」と講演会で呼び、大問題となる。結局、戦争の激化で電気事業は国家が管理することとなり、東邦電力は解散した。
「俺は会社をやめる」。そう言い放ち、あらゆる事業から手を引いた松永は、隠居して茶道と古美術の収集に凝った。茶人としての号は「耳(じ)庵(あん)」。その点前はまさに自由かつ豪快で、収集した高価な美術品を惜しまず用いながら、あぐらをかいて茶を点てていたこともあるという。その姿は、仲間の茶人や客人たちから「耳庵流」とも揶揄されたが、松永は意にも介さなかった。
電力界にはやはり松永の力が必要だ、と誰しもが気づいたのは、戦後すぐのことだった。
民主化政策のひとつとして電力事業の民営化が叫ばれるようになると、“電力の鬼”は電力界に呼び戻された。民営化の実現はもちろん、東名高速道路、名神高速道路、沼田ダムの計画でも、松永はリーダーシップを発揮する。
徹底した現場主義者であった彼は、建設計画現場を視察する際、工事現場で働く人たちと同じ粗末な小屋に寝泊まりしたという。「産業人は、民衆の役に立つために働くもの」が口癖だった。
松永は九六歳で亡くなるまで、電力界、そして経済界に影響を与え続けた。九十歳を超えてもなお電力開発の研究所に毎週通っていた、という周囲の証言があるほど、最後まで徹底して産業人だった。
官僚と、形式ばったことが大嫌いだった松永は、亡くなる十年前、風変わりな遺書を遺している。
曰く、「死後一切の葬儀・法要はうずくの出るほど嫌いに是れあり。墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。死んで勲章位階(もとより誰もくれまいが友人の政治家が勘違いで尽力する不心得、かたく禁物)これはヘドが出る程嫌いに候」。
その遺志を守り、葬儀の類は一切おこなわれなかったという。
松永安左ェ門という、生涯を通して「闘争」し続けた偉人。いま、もしも彼が生きていたら、どんな言葉を残したのだろうか。
【壱岐のあれこれ #15】
電力界・財界の偉人、松永安左ェ門。彼の故郷である壱岐の玄海酒造には、その名前を冠した「松永安左ェ門翁」という本格麦焼酎があります。ホワイト・オークの樽で貯蔵し、じっくりと熟成させた古酒は、骨太で芯のある松永安左ェ門の生き様を想起させるとっておきの逸品です。
壱岐を訪れた際は、松永安左ェ門の生家跡に建つ「壱岐松永記念館」で彼の歩みを知るとともに、松永翁の名のついた焼酎で乾杯してみてはいかがでしょうか。
(参考文献……『電力の鬼 松永安左エ門自伝』毎日ワンズ、2011年)