壱岐市郷ノ浦。中心部から少し離れた山のなかに、小さな牧場がある。青空のもとで放牧されているのは、まるまると太った牛たちだ。
大人しい牛たちは、人はもちろん、牧場に住みついた犬や猫が近寄ってもまったく動じず、黒い目でじっとこちらを見つめてくる。ここ、七夕牧場の経営者である野元久志さんは、「人懐っこいけん、よく見てくるでしょう」と慣れた様子だ。
うにや剣先いか、壱州豆腐など、数多の名産品を誇る壱岐。そんな食に恵まれた島のなかでも、特に島内外の人々から高い評価を受ける名産品が「壱岐牛」だ。ブランド牛と聞くと松阪牛や神戸牛が有名だが、それらのブランド牛ももともとは壱岐生まれ壱岐育ちの壱岐牛であるケースが多い、というのはあまり知られていない。
遠くは東北からも買い付けに来るという壱岐牛の子牛は、一頭五十万円から八十万円で取り引きされることも多い高級品。さぞかし、牛ひと筋数十年……なんて農家がその飼育をしているのかと思いきや、七夕牧場を経営する野元夫婦はまだふたりとも二十代だというから驚かされる。
「牛って、一度横になると自分から起き上がれないんですよ。たまに気持ちよくて寝ちゃったまま起きられなくなる牛がいるけん、見つけると起こしてやるんです」
そう言って笑うのは、夫の久志さんだ。壱岐にある実家は野元牧場という畜産農家を経営していて、自分も農家の道に進もう、と考えるようになったのは自然なことだったと言う。高校卒業後、農業の学校に通い、農協に就職して二年間経験を積んだ。自分の牧場を持とう、と決心したのは、弱冠二十二歳のときのことだ。
「ゆくゆくは実家の野元牧場を継ぐつもりで、いまもその気持ちは変わっていません。ただ、最初から継ぐんじゃなくて、まずは自分の力で農業をやってみたいと思ったんです。農家のいいところも悪いところも、自分でやってみないと分からないと思って」
口数は決して多くない久志さんだが、その目には強い意志とこだわりが感じられる。畜産農家の道に迷わず飛び込んだのは、壱岐牛という島随一のブランドを絶やしたくなかったという使命感もある。しかし、それよりも「ほかの道より、この道のほうが自信があったからかもしれません」とまっすぐに言う。
「農家の嫁になる、って分かってて嫁いだんですけど……やっぱり最初の頃は、毎日どっと疲れて大変でした」
そう話すのは、妻ののどかさんだ。久志さんとは壱岐のふたつの高校が合同で開催する同窓会で知り合い、二〇一三年に結婚。その頃にはすでに、久志さんから牧場を始める計画も聞いていた。翌年から早速、夫とともに牛の飼育を始めることとなる。
「最初は、子牛市場で二頭の牛を買ってきて、その二頭を育てるところから始めたんです。そこから少しずつ牛が増えていったんですが、まだ小さい牛は病気にもかかりやすいし、毎日欠かさず面倒を見なきゃいけなくて」
壱岐牛として市場に売り出すためには、栄養をコントロールした特定の餌しか食べさせてはいけない、ビタミンを過剰に浴びさせてはいけない……といった厳しいルールがある。そのため、生の草を刈ったり、牛の体調を見てビタミンを投与したりするのも欠かせない仕事だ。
「出荷まではだいたい二年数ヶ月くらいです。いまはトラクターやショベルも導入したので少しは楽になったんですけど、はじめは餌やりもすべて手でやっていたので、慣れるまではほんとにきつかった」
話しながら牛に餌をやるのどかさんの手つきには、若さから想像できないような貫禄がある。毎日、早朝と夕方に餌やりをする習慣にも、すっかり慣れてきたそうだ。
「仕事に慣れて余裕ができてくると、そろそろ福岡行って遊びたいな、と思いますよね」。そう言ってニコニコと笑うのどかさんは、家ではふたりの子どもの子育てや家事もこなしている。
子どもたちに農家を継いでほしいとは、いまは特に思わないと夫婦は言う。
「やっぱり、ずっと自分たちでやってきた分、農家の大変さはよく分かってるけん。必ずしも継いでほしい、とは思わないですよね。子どもたちの自由にしたらいいと思います」
そのマイペースさは、自分たち一代の手で牧場をここまで育ててきた、という自負に裏打ちされているようだ。
七夕牧場の壱岐牛は、いまでは四十頭まで増えた。自信を持って出荷できる牛を育てているからこそ、壱岐牛のブランドをもっと島内外に発信していきたい、とのどかさんは力強い口調で語る。夫婦が話す後ろで牛が鳴くたびに、ふたりは揃ってそちらにやさしい目を向けた。