船が港を離れてゆく。
隣に座る女の子たちのグループは、大学生だろうか。身を乗り出すようにして、徐々に遠くなる船着き場にカメラを向けている。

 
波に揉まれて薄くなった「スロー」という文字は、きっと港に入る船に向けたものだろう。ぼんやりとそれを見ていると、つられてこちらの肩の力まで抜けてしまうような気がする。

冬に差し掛かっていることもあってか、乗船人数は少なかった。大学生たちの他には、小さな子どもを連れたお父さんと、私だけだ。
昼過ぎの遊覧船は、アナウンスの声もかき消してしまうほどの勢いで水しぶきを立てながら、辰ノ島に向かっている。

 

十分ほどすると、切り立った崖が見えてきた。岩肌に波が打ち寄せるさまは、日本ではないどこか遠くの国の風景のようだ。海の色も少しずつ、青みがかった緑色に変わってきた。この色はいったいなんと呼ぶのだろう。
「いま、大きい魚見えた!」と子どもが船の前方を指差して叫ぶ。若いお父さんはじっと目を細めて、その視線の先を追っていた。

 

辰ノ島に着くと、大学生たちが真っ先にワーッと声を上げた。目の前に広がる海に目を輝かせて、大人も子どもも、全員が駆けるように船から下りていく。
取り残された私がのろのろと船を出ようとすると、船頭のおじさんが「夕方までに何度か来るから、好きな便で戻ってきらっしゃいね」と声をかけてきた。船がある限り、帰る時間は自由のようだ。

私を降ろした船は、すぐに沖合へ戻っていった。辺りを見渡すと、さっきまで一緒に乗っていた人たちがもうずいぶん遠くにいる。その後ろ姿を追いかけようか少し迷って、足を止めた。
ちょっとひとりになりたい、と思ったのだ。

 
 

誰もいない波打ち際を歩く。他の乗客は、どうやら海から少し離れた蛇ケ谷に登っているようだ。耳を澄ましても、風の音のほかには何も聞こえなかった。
急に心細くなって、ポケットの中の携帯電話に思わず手が伸びた。通知は表示されない。一日前、壱岐島に着く前に電源を切ったのだから、当たり前といえば当たり前だった。

短い旅の行き先は、正直に言えば山でも海でも海外でも、どこでもよかった。景色が綺麗で、誰も私のことを知らない場所。それだけが条件だった。
海とか日差しとかサワガニとか、なんでもいいけれど喋らないものと向き合いたかった。

 
 

海に背を向け、広い砂浜を眺めてみる。
ぐるりと体を一周させてみても、誰の姿も見当たらなかった。目が悪いせいだろうか、はるか遠くに見える水平線は、蜃気楼のように曖昧な色をして揺らいでいる。

波がくるぎりぎりまで近づいてみると、靴の底が少しだけ湿った。時折、足首に水が跳ねる。海水は思ったほど冷たくなかった。恐るおそる靴を脱いでみる。指のあいだに、波とともに温かい砂が流れ込んできた。
心地よくて、しばらく波間にぼんやりと立っていた。

遠くで子どもの笑い声がして、ふっと我に返る。蛇ケ谷から戻ってくる親子のシルエットがかすかに見えた。
砂浜を歩きながら、思わず笑ってしまった。
本当に一瞬だけ、目に見える景色のすべてが自分ひとりのものになったような気がしたのだ。

 
 

振り返ると、さっきまでそこにあった私の足跡は、波に流されてなくなっていた。人がそこにいた跡なんて、いつでも簡単に消えてなくなってしまう。右手を空に透かしてみると、うっすらと甘い潮の匂いがした。

【壱岐のあれこれ#8】

壱岐観光の定番スポットでもある「辰ノ島」は、勝本港からほど近い無人島。釣りや、夏場には海水浴を楽しむことができ、観光客はもちろん、地元の人にも愛されています。
辰ノ島には勝本港から遊覧クルーザーが出ていますが、初めて行くなら、四十分ほどかけて壱岐の近くの島々を案内してくれる「島めぐり遊覧」コースがおすすめです(十二月~三月までは予約便の運航のみ)。

辰ノ島の海は、平成十八年に「快水浴場百選」に選定されたほど美しいエメラルドグリーン。人のあたたかさも壱岐の大きな魅力ですが、ふとひとりになりたくなったときや、雄大な自然に向き合いたくなったときは、辰ノ島までちょっと足を伸ばしてみてはいかがですか。

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