不思議な人に出会った。壱岐出身の大曲おおまがり詩摩しまさんは、PR会社の社員として東京で働く傍ら、日本各地で上方落語を中心とした「落語会」の企画・運営補助をおこない、今年からは壱岐島内でシェアハウスの運営もしている。

フェイスブックを開くたび、彼女がコーディネートした多種多様なイベントの告知が、毎週のようにタイムラインに現れるのが気になっていた。どうしてそんなにいろいろなことをするのか、と尋ねると、「動いてないと落ち着かないんですよね」と人懐っこく笑う。

 
 

三兄妹の末っ子として壱岐市郷ノ浦で生まれ育った大曲さんは、子どもの頃から好奇心旺盛だった。ふたりの兄には自由にできることが、「女の子だから」という理由で制限されるのがいつも悔しかったという。

「小学生の頃、地元のお祭りが大好きで。男の子は小太鼓を叩いたりしてお祭りの列に加われるのに、女の子はだめだって言われたのがすごくショックだったんです。私があんまり悔しがるので、父が地域の振興会に直談判してくれて。おかげでその年からは女の子もお祭りに参加できるようになった、なんてこともありました」

一度気になったことはやってみないと気が済まない。当時の壱岐は彼女にとって、「ないものがすごく多い島」だったという。

「壱岐のテレビは長崎のチャンネルも福岡のチャンネルも映るんですけど、そこに映っているものを実際には見られないんですよ(笑)。私にとってはそのひとつが“落語”で。高校の授業で英語の落語のビデオを見せてもらったことがきっかけで、落語という存在が気になっていました。家のテレビで深夜の関西の番組を見たりするたびに、本当の落語ってどんなだろう? と思っていました」

高校卒業後は、「関西であれば落語を生で見られる機会が多いはず」という思いも手伝い、大阪に移住。京都の大学に通いながら、落語会通いとアルバイト漬けの日々を送った。ホテルのティーラウンジ、水族館のスタッフ、新聞社の社会科見学の案内係……とさまざまなアルバイトをかけ持ちするなかで、人と関わる仕事の楽しさに気づいた。

「バイトが楽しいのはいいけど就職はどうすんねん、と周りの大人たちに聞かれるようになった頃、あるテレビ関係者の方が、『落語会を企画制作する会社が日本にひとつだけある』(※二〇〇〇年当時)と教えてくれたんです。人と関われて、しかも好きな落語にも携われる。直感でこれしかないと思って、新卒でその会社に飛び込みました」

 
 

大曲さんが新卒で入社したのは、現代の上方落語界を代表する落語家・三代目桂米朝さんが当時のマネージャーと立ち上げた芸能事務所。七年ぶりの新入社員に、先輩マネージャーたちも、最初は戸惑いを隠せなかったという。

「小さな会社ですし、私が右も左もわからない状態なのはもちろん、先輩たちも少人数でたくさんの噺家さんたちのサポートをされているからいっぱいいっぱいで、私をどう教えていいかわからないという感じでした(笑)。
噺家さんにも若い方はいらっしゃったんですが、当時はやっぱり“若い女の子だから”という理由で気を遣われたくないと思って。年上に見えるように落ち着いたトーンで話す癖もつけましたし、事務所の外の方と話すときは、見栄を張って『三〇です』とか言って背伸びしてましたね」

落語会の企画・運営とともに落語家たちのサポートをしつつ、公演で全国を回る日々が四年半続いた。
ほぼ毎日のようにある落語会とその打ち上げ、そして多大なそのほかの業務を繰り返すうち、自分の体が気持ちになかなか追いつかなくなってきていることに気づいた。体力がないことをコンプレックスに感じていたが、それを相談できる同世代の同僚もいない。しだいに仕事として落語と向き合うことが辛くなり、悩みに悩んだ末、大阪を離れることを決意する。

「桂米朝師匠は、百科事典のような方でした。私が壱岐出身だと聞いて『壱岐にはこういう歴史があったんやなかったかいな』『こういうものが美味いに違いないねん』っていろいろお話してくださるんですが、私のほうがそれを知らないのが申し訳なくて。なにより、その四年半は忙しいのと余裕がないのとで、壱岐にほとんど帰っていなかったんです」

 
 

事務所を退職し、壱岐に戻って実家の両親が営む衣料品店の手伝いを始めると、かつては「ないものが多い」と思っていた島の豊かさが、初めて見えてきた。

「壱岐を出たいろんな方が言うことだと思うんですけど、やっぱり子どもの頃は、自分が日常的に食べているものがすごく美味しいって気づかなかったんですよね。たとえば関西に出たばかりの頃は、白いイカを見て『見たことないイカだな、壱岐のは透明だから違う種類なのかな』なんて思ってた。すごく贅沢な話だけど、そういうことにも壱岐を出て初めて気づいたんですよ」

実家での二年間は、彼女のなかの故郷に対する印象を少なからず変えさせた。東京に移住し、PR会社での仕事を始めたあとも、SNSなどを通じて壱岐のことを気にかける時間が以前より増えたという。

 
 

二◯一五年の春。国民的ロックバンドのB’zが、壱岐で初めてのライブをおこなった。壱岐島民にとって歴史的とも言えるこのイベントに、大曲さんも東京から帰郷し、当時病床に伏していた叔父の介護をしていた母を連れ、駆けつけた。

「そのとき、ライブはもちろん、さまざまな方法で島を盛り上げようとしている壱岐の人たちを見て感激してしまって。『壱岐にはまだまだいろんな人たちがいるんだ』『壱岐はまだまだいろんな人たちが集まる可能性のある島かもしれない』とようやく思えたんですよね。私が知らなかっただけなんだ、と。

それに、いま振り返っても、二◯一五年の春は自分にとって忘れられないタイミングで。ちょうど同じ頃、桂米朝師匠が亡くなったという知らせを聞いたんです」

 
 

大阪で執り行われた葬儀に駆けつけ、元事務所スタッフとして受付をした。悲しみに暮れる大勢の弔問客、大御所、若手の落語家たちの姿を見ていると、自分のなかに湧き上がるものがあった。
それは、かつては自分から一度手放した壱岐と落語というふたつのものに、自分なりに向き合う活動がしたい、という強い気持ちだった。

 
 
後編へ続く

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一度は手放した「故郷」と「上方落語」に、私がふたたび出会うまで【前編】

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