辞めるなんてただの噂だと思っていた。おしゃべりな教授のことだ。きっといつもの調子で「こんな授業やってられるか」とかなんとか、冗談半分で言ったんだろうと。
だから、本人から電話がきたときはさすがに面食らった。ようやく辞められるよ、と電話口で笑った教授の声は、当時よりも心なしか小さく聞こえた。

 
 
 
教授は人気のある先生だった。大学一年の四月、最初の授業に胸を高鳴らせている僕たちの前にくたびれたTシャツ姿で現れて、最前列に座る僕を一瞥するなり「君らねえ、こんなに天気のいい日に授業なんか出てくるんじゃないよ」と舌打ちした。教室中が一瞬の間のあとにどっと沸いたのを、昨日のことのように覚えている。

 
変わった講師がいるという話はたちまち広まり、教授の授業には毎回人だかりができた。彼の授業はいつも満員だったが、それは彼が変人だったからとか出席認定が甘かったからというのに加えて、なにより、授業がおもしろかったからだ。
小難しい哲学をニュースや映画の話題に絡めて説いてくれる教授の講義は、授業というよりも、深夜帯でひっそりと長年続くラジオ番組のようだった。

 
教授はよく喋る人だけれど、自分の話はあまりしなかった。そもそも「教授」というのもただのあだ名で、実際は彼が教授なのか准教授なのか、それとも外部講師なのか、学生は誰も知らなかったように思う。
謎の多い人だった。実は彼は学長が仲よくしているただの一般人であるとか、講師室のロッカーの中には好物の酒が隠してあって、授業の前には必ずそれを一杯飲んでから教壇に立っているだとか、めちゃくちゃな噂まで飛び交っていた。

 
 
 

 
一度だけ、教授の授業を欠席したことがある。
寒い冬の日だった。家族に車で送ってもらって、僕は一週間ぶりのキャンパスを歩いていた。キャンパスの庭には前日に降った雪がまだずいぶん残っていて、窓から外に目をやるとその白さがまぶしかった。

 
廊下で、授業を終えたばかりの教授とすれ違った。教授は僕に気づくと小さくおっ、と言ったが、立ち止まってはくれなかった。思わず、僕のほうから「教授」と呼んだ。
教授はむすっとした様子で講師室に入っていった。中に若い助手たちしかいないのを確認して、無言で僕を手招きする。
教授は自分の名字が書かれたロッカーを開けると、そこから大きな黄色のボトルをとり出した。「飲むか」と言われ「飲めません」と答えると、「そうか」と子どものように口を尖らせながら、グラスに酒を注いだ。

 
「父は酒が好きでした」
僕がそう言うと、教授はグラスを掲げて「ケンパイ」とつぶやいた。身近な人の死に慣れていない僕には、それは生まれて初めて聞く言葉だった。

 
 

 
頑固親父そのものだった父のことを、正直に言って僕はあまり好きではなかった。いつも夜遅くに帰ってきては、食卓でひとり酒をなめていた。教授とそう歳も変わらないはずなのに、どうして親父はこんなに古臭いんだ、と苦々しく思ったこともある。
おしゃべりで陽気な教授と、頑固で家族からも敬遠されがちだった父は、なにひとつ似ていない。そう、あの頃は思っていた。

 
 
 
電話口で、教授は「相変わらずくそ真面目にやってるんだろうね」と舌打ちした。僕が笑うと、授業を一度も休まないような学生にろくなのはいないよ、と本気なのか冗談なのかわからないことを言う。
僕は一度だけ休みました。そう言うと、「そうだね。そろそろ七周忌じゃないのか」。

 
辞める理由は聞けなかった。結局、卒業してからも教授が何者なのかはよくわからなかったけれど、あの日ロッカーに入っていたボトルが酒好きの間では有名な焼酎だったことを、そして、父もその焼酎が好きだったということを、自分も酒を飲むようになって知った。
 
教授、まだ飲んでますか。僕が聞くと、教授は一瞬の沈黙のあと、「馬鹿にするんじゃないよ。そっちは一生現役だよ」と叫んだ。

 
 
電話を切って窓の外に目をやると、外は晴れて明るかった。晴れた日の朗らかな明るさは、雪の日の目に刺さるような明るさと、似ているようでまったく別物だ。けれど、どちらもまぶしいことには変わりない。
退職祝いに酒を贈ろう、と急に思い立って、僕は冬の街に出る支度を始めた。

 

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酒を贈る

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